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「情報処理」の根本に立ち戻る

今日和。 またまた御無沙汰しております。 如何お過ごしでしょうか。 わたしが住む地域は比較的、好い陽気が続いており、ありがたく思っています。 初老も迎えた小生、とてもとても「不惑」に達したなどとは云えず、いろいろと物思う日々を送っている次第です。 先日から何冊か、結城 浩 氏の著作を読んだり読み直したりしておりました。 学生時代から雑誌連載を通じてお世話になってきた、私淑の師のひとりです。 今回は『文章作法』や『デザ・パタ本』を読んだのですが、そこで語られている内容そのものより、その背後にある《暗黙の前提》が気になりました。 たとえば『文章作法』は執筆術です。 ですが、それは「書いてあること」をどのように読み取るか/読み取らせるか、の 《読解術》 であるように感得されました。 『デザイン・パターン』はプログラミングするときの処理の類型です。 ですが、こちらも「プログラム」に留まらず、取得した情報をどのように加工して望みの結果を得るか、という 《情報処理術》 に見えました。 そもそも 《情報処理》 とはなんであるか? 現行のパラダイムでは 「入力された情報を、なんらかのアルゴリズムによって処理して、計算結果を出力する」 ということになります。大学で「情報科学」や「情報工学」と銘打った授業は多数ありますが、それらの分野を、たんなる「コンピューターの使い方」として受け取るのは、非常に勿体ない気がするのです。 むしろ、 情報処理とは、人間の生存・生産活動において必須の、重要なプロセスについての【抽象化 】 ではないか と。 書店に出かけると『アルゴリズムとデータ構造事典』みたいな本を売っています。 あれを単なるレシピ集としてだけ読むのは損だと思うのです。そうではなく、あれはもっと応用範囲のひろい、 『「仕事のやり方」の虎の巻』 ではないかと。現実の人生や仕事で直面する諸問題を、いかに 《モデル化》 し、それを一定の手続きのもと処理し、望みの結果を得るか、というのは、単に「情報処理」だけのパラダイムではなく、 『作業』そのもののパラダイム なのだと痛感するようになりました。 だって、もともと「情報処理」は現実に存在する諸問題を、抽象的にモデル化して、処理して解決するために生まれてきた学問なのですから。 だから