おはようございます。
またまた御無沙汰しております。
今朝はこんな、“Nature” への投稿を見かけました。
有料会員ではないのでアブストしか読んでませんが、若い頃考えていたことをふと想起しましたので、ちょっとメモしておきます。
https://www.nature.com/articles/s41586-019-1043-4
私は世代的にそうなのか、御多分にもれず gamer 世代です。
とある失意をきっかけに一切コンピューター・ゲームをしなくなりましたが、やっぱり「ゲーム」の影響は強く、一方では SF 小説の乱読もしていたので、ずいぶんと夢見がちな学生でした。
わたしは卒業研究(Inverse Kinematics の implementation)のかたわら、ゲーム業界に就職できないものかどうかと企画を練っていました。そのとき思いついたのが『進化ゲーム』です。それは当時流行だった『複雑系』や『遺伝的アルゴリズム』といった概念をエンターテインメントのかたちに落とし込んだ『社会シミュレーション』のゲーム企画でした。
タイトルは『だいばーしちー』でした。
詳細は省きますが、わたしは『人類の進化の歴史』に強い興味を覚えていたのです。
そして、それが今後どのようになるのかにも、若干の危惧を伴いながら希望を抱いていました。その『仕組み』が知りたかった。
それよりちょっと昔に『ぶたさん』という、たいへん愉快なゲームがありました。
ぶたさんたちが爆弾を投げ合う無差別ドッジボールのような。
わたしはそこで『薬』と『毒』を投げ合うゲームにアレンジしたらどうなるか、夢想しました。
世に「酒は百薬の長」とも「百毒の長」とも申しますが、あんな感じです。
しかも
またまた御無沙汰しております。
今朝はこんな、“Nature” への投稿を見かけました。
有料会員ではないのでアブストしか読んでませんが、若い頃考えていたことをふと想起しましたので、ちょっとメモしておきます。
https://www.nature.com/articles/s41586-019-1043-4
私は世代的にそうなのか、御多分にもれず gamer 世代です。
とある失意をきっかけに一切コンピューター・ゲームをしなくなりましたが、やっぱり「ゲーム」の影響は強く、一方では SF 小説の乱読もしていたので、ずいぶんと夢見がちな学生でした。
わたしは卒業研究(Inverse Kinematics の implementation)のかたわら、ゲーム業界に就職できないものかどうかと企画を練っていました。そのとき思いついたのが『進化ゲーム』です。それは当時流行だった『複雑系』や『遺伝的アルゴリズム』といった概念をエンターテインメントのかたちに落とし込んだ『社会シミュレーション』のゲーム企画でした。
タイトルは『だいばーしちー』でした。
詳細は省きますが、わたしは『人類の進化の歴史』に強い興味を覚えていたのです。
そして、それが今後どのようになるのかにも、若干の危惧を伴いながら希望を抱いていました。その『仕組み』が知りたかった。
それよりちょっと昔に『ぶたさん』という、たいへん愉快なゲームがありました。
ぶたさんたちが爆弾を投げ合う無差別ドッジボールのような。
わたしはそこで『薬』と『毒』を投げ合うゲームにアレンジしたらどうなるか、夢想しました。
世に「酒は百薬の長」とも「百毒の長」とも申しますが、あんな感じです。
しかも
- 薬は薬として効くことが多いが毒にもなる
- 毒は毒として効くことが多いが薬にもなる
ことを『だいばーしちー』の基本ルールとしました。
プレイヤーは n 人で、それぞれ、いくつかの属性に代表された「性格」を持っています。
怒りんぼだったり、のんびり屋さんだったり。
利他的だったり、利己的だったり。
薬が効きやすかったり、毒が効きやすかったり。
これは「贈与と収奪」のゲームです。
薬が効きやすかったり、毒が効きやすかったり。
これは「贈与と収奪」のゲームです。
そして、隠れ属性として、カンタンな遺伝子コードを持たせます。
面をクリアーする度に、プレイヤーたち(いわゆる NPC のほう)を『遺伝的アルゴリズム』によって生成しなおして、あらたなステージを開始するのです。
わたしはこのゲームによって、利己的なキャラクターがまわりにどういう影響を与えて世代間相続をつづけるか、それに比して利他的なキャラクターがどのような影響をまわりにあたえるか、いわゆる『社会シミュレーション』をしてみたかったのです。
さて、本論。
現代は二極分化しつつある世上です。
この社会情況に内心忸怩たるものがあります。
わたしはこの局面の打開になにができるか、時折思案してしまいます。
そこで出逢ったのが前掲の、論文アブストです。
人間社会は複雑度を増すにつれて、「法を司る神」つまり『倫理』の理想化された客体を創出せざるを得ない。そうしないと、社会として進化できない可能性が強い。つまり、複雑化する社会として、時代とともに変化する——時に激変する——「環境」に適応できなくなる。
これ、いまの日本に、直截に当てはまっています。
日本には、ちゃんとした「信仰」を持った人は少数派だと見受けられます。
一方、いわゆる『日本教』と呼ばれるような【空気】は存在します。
その「社会的再生産」には、ベルト・コンベアー式の金太郎飴生産工場である「公教育」が大いに関係してます。
江戸時代の「寺子屋」や「私塾」はもっと多様な、世代を超えた人材を輩出していたであろうにね。
わたしたちはこの事実に直面したほうがいい。
でなければ、早晩衰退するでしょう。
別に衰退しても構わない、仕方がない、という向きもありましょうが。
すくなくとも、この『神』や『倫理』がほんとうに《社会的に必要》だと云うことだけは、せめて知的に理解しておくべきです。人間とは「別次元」の理想的客体の効用を。
実はそれ、「人類の思想史をメタ学習せよ」ってことですが。
きょうはここまでです。
ちなみに『全知全能なる絶対神』が存在する可能性は、人間が論評できるようなものではありません。まったくもって超越的に別次元の話です。
私見では、『神の概念』をあとから創出したのは人類ですが、それよりはるか以前に『大宇宙を創造した本体』があると感じています。
それはわたしの不可思議な境遇ゆえです。
正直、坐禅や祈祷などの修行を通して、いわゆる『神秘体験』をしておくことをオススメしますね。神秘体験と申しましても、それはもう様々なタイプがあることも体験できて、そのうち自己相対化できるでしょうから。
一時期『アウェアネス・トレーニング(「自己啓発セミナー」と誤魔化して訳される)』に没頭していた宮台 真司という学者が以前公言していたことですが、
だそうです。ええ、そのとおりです。でも、裏を返せば
です。
「神秘現象の体験は神秘(つまり神)の存在をただちに証明するものではない」
だそうです。ええ、そのとおりです。でも、裏を返せば
「神秘現象の体験は神秘の存在を『否定するものでもない』」
です。
人生、いろいろありますね。
まさに『神のみぞ知る』。
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